原子力発電所には反対だった

福島の事故以降、原子力発電者には反対だった。

 

それが最近揺らぎ始めている。

 

私は、それなりに強い反対派だったと思う。もしも、将来、原発の推進が是とされるのであれば、反対派の人間が何をもって考えを改めるきっかけになるのか、それは価値のある情報かもしれないので、何がきっかけとなっているのか思い出してみる。

 

ロシアのウクライナ侵攻は、ひとつの大きなきっかけだ。

エネルギーが足りないということは、エネルギー資源を持った国に依存するということだ。天然ガスをロシアに依存しているヨーロッパの国は、ロシアへの制裁に手間取った。

ロシアの外貨を少しでも減らせたら、それが戦争の早期解決に寄与したかもしれないのに。残虐行為を少しでも減らせたらかもしれないのに。

 

それが、一つ。

 

それに、今のところ、原子力発電所によって亡くなった人間が少ないということだ。潜在的危険性は確かに非常に大きい。事故によっては、大量の人が死んだり、広大な土地が立ち入りできなくなったりするのではないか、と危惧している。

しかし、何もしていなくても、人は病気でも戦争でも事故でも死んでいく。原子力発電所の危険性のみを殊更に大きく捉えるのは間違いではないかと思うようになった。

たかがエネルギー、火力で補えば、電気代が上がることはあっても、それは許容可能なものだ、と考えていた。

 

しかし、その火力が問題だ。二酸化炭素排出量の問題は、エコに敏感な一部の人の好みの問題だと軽視していた。

しかし、私は無知だったのだ。

温暖化の問題は直ちに取り組まなければならない問題だった。

 

太陽光や地熱発電などの代替的な方法はあるのだろう。それが、どの程度の代替手段になるのか、自分はまだよくわかっていない。

 

原子力発電所に反対するには、自分はまだとてつもなく無知なのだ。

少しずつ学びつつある中で、かつては、原子力発電所は絶対に許されないものである、これを未だに維持し続けようとしているのは、既存の利権団体がいるからであるなどと単純化して理解していたように思う。

 

このように書いているととにかく未熟で嫌になるな。

まだ、自分がどのような意見を持つべきなのか、定まっていないけれど、絶対反対から大きくぐらついている状態だ。

母親の家事負担が重いについて

最近、母親の家事負担が重い、という発言が多く、Twitterなどでは、それが同じように感じている母親から高く評価され、一方で、これに対して男性側からも多様な批判が繰り返されている。

 

私としては、それぞれ、それなりに実態を伴った主張をしているのだと思う。各家庭の事情も違うので、母親の主張が真実のこともあるだろうし、男性側の主張が真実であることもあるだろう。

 

このように議論が盛り上がるのは非常に良いことだと思う。

今は、過渡期なのだ。この議論の中で、社会が変わっていっているのだと思う。

過去、女性が非常に辛い状況にあったことは本当だと思う。男性の労働時間は当然のように長く、家事育児なんてできない。それは、母親だけでなく、男性、父親にとっても苦しい状況であった。

まだまだ古い体制は残っているけれど、男性の職場においても、次第に家事育児の一部を担えるだけの状況ができつつある。

しかし、それがまだらだから、また、男性側も古い考えのままの人もいれば、新しい考えを持つようになってきた人もいる。

そのまだら状態だからころ、一部では当然とされている考えが、あるところではまったく受け入れられない。

それが炎上の燃料になっている。

私が考える、現在の批判の構造は、母親たちが、古い男性社会を批判し、新しい考えに順応した男性たちが、批判ばかりを繰り返す母親たちを批判するものではないか。

そして、実はさらに先にいる母親たちは、順応性した父親を褒め始めている気がする。

この構造から考えると、さらに先に進んだ男性は、その父親を褒める母親を褒めるのだろう。

 

なるほど、未来は明るい。

 

お互いに、褒め合い、感謝を伝え合い、不満は小さなうちに明るく伝え、それに応じてくれたことに対してまた感謝を伝える、そんな社会が近いと感じる。

今は過渡期。

 

もう少し書きたい。

やはり今は以前よりもずっと良くなっている。

女性側の出産前後の負担は、既に相当言語化されて、それはもう当然のように相当広い範囲の男性に認識されている。

ヒステリックな批判が繰り返されているけれど、やりすぎな演出が山ほどあるけれど、その中で、正しい情報が伝わっている。

ホルモンバランスが崩れるとか、眠れないとか、傷が治らずにきついとか、そういう訴えが、どのような形であれ、しっかりと男性側に届いているのは良いことだ。

 

最後に、ヒステリックになっている母親に辟易としている父親に対して、何をやっても攻撃してくる母親に対してどうしたらいいか。

実は、家事を手伝おうとしているにもかかわらず助けを振り解いて噛み付いてくる彼女たちにも、本当に嫌いな家事がある。これに対しては、こちらの助けを受け入れてくれやすい。

それは、汚い家事だ。トイレ掃除、シンクとお風呂と洗面所の排水溝掃除、テーブルの下の子どもが投げ捨てたご飯の片付け、家中のゴミ箱をきれいにすること。

臭い、ネトネトする、などが得意なんて人はいない。これを毎日毎分気にして、直ちにきれいにして回るだけでも、狂気に囚われた母親が正気を取り戻しやすくなる。

コミュニケーションがとれるようになったら、少しずつ仕事を取り上げていけば、次第に元の魅力を取り戻すはず。

ロシアを悪者にすることは簡単である

河瀬直美さんが東大で語った言葉である。

 

これに対して、侵略戦争をする者を悪と言わずして何を悪と言う、という批判がなされている。

 

いや、まったくその通りではある。確かに、ロシアは悪と言わない考えはないと思う。

 

その上で、河瀬直美さんへの批判は的外れではないかとも思う。

その発言の全文を読んだ上で私の理解では、福はうち、鬼もうち、との発言にあるように、悪を自分の中に入れる、ただ外部にあるものとして拒絶するのではなく、自分の中に入れる、考え方があるということなのではないかと思う。

 

ロシアの残虐性には目に余るものがある。同じ人間だとはとても思えない。

しかし、人間は、ロシアのみならず、こういった残虐性を持ちうる存在なのではないか。

自分は、自分の国は、決して、ロシアのような残虐行為を行うことはない。

そう実感できるのは、とても幸せなことである。

しかし、過去に日本だって、侵略戦争に及んだことがある。経験はしていないし、ほとんどリアルに感じることなどできない過去のことではあるけれど、それほど大昔のことではない。

 

何が原因でそんなことになってしまったのだろうか。

一応の知識もあり、同じことはもう二度と起きないと思う。

けれど、二度と繰り返されることはないかもしれないけれど、抽象的に、人間とはそのような残虐行為に及びうる存在なのである。

悪者にする、というのは、それを自分の外側の存在として、批判の対象として、自分とは切り離した存在としてしまう、ということなのかもしれない。

そうではなくて、自分の中にも、自分の国にも、同じ過ちを犯す可能性があるとして、これを見つめる視点を持つこともできる、そのことを河瀬直美さんは言われているのではないかと思う。

 

ドイツがヒトラーを産んだのはなぜか。

アメリカは、菊と刀のように、日本文化を研究していた。

ロシアはとても受け入れられない。

けれど、ロシアの残虐性は、これから抑制していかなくてはならない。

その時、ロシアを悪者として外部に置くよりも、この残虐性を人間が持ちうるのだとして、十分な研究と理解を示すことで、効果的に抑制できるのかもしれない。

そして、将来、日本が道を間違えそうになった時にも、その視点は役に立つのかもしれない。

絶望的な気持ちになるけれど、ロシアを理解する姿勢を保ち続けなければならない、ということでないか、と思った。

月曜日のたわわ

月曜日のたわわ、というマンガの広告が日経に出て、これに対して、巨乳の女子高生のキャラクターを日経新聞に載せるのは不適切だ、と表現を規制するべきとの批判と、この批判が不適切だと表現を肯定する者とが激しく争い炎上した。

 

論点は山ほど出ていたが、前提として、表現を規制すべき論拠が一つでも認められれば規制すべきという結論になり、表現を肯定するには、規制派の主張の全てを反駁しないといけない。

 

そして、これは、法的な問題ではない。合法な表現であることは明らかなので、法律の専門書を引用して、合法なのだ、という主張は、そもそも前提となる土俵に上がれていない。

 

Twitter上の論客たちのツイートを見てみると、フェミと呼ばれる反対派の稚拙なトンデモ理論に対して論理的に反論しており、表現肯定派の方が優勢な印象を受ける。

とはいえ、よくみると、あえてトンデモ理論に対してばかり噛みついており、メインの論点にはあまり積極的な反論はされていないような気がする。

 

私がメインの論点だと思っているのは、見たくない人や見るべきではない人の目に触れないように表現すべき、というゾーニングの点だ。

 

重ねて言うが、法的な話ではない。合法な表現であっても、見たくない人がいれば、配慮をすべき、という考え方である。

 

表現なんて必ず見たくない人がいるのだから、見たくない人のことなんて配慮していたらどのような表現もできなくなってしまう、と反論されている。

多くの人は、見たくない表現は、自分で見ないようにしている。

 

それでも、子どもたちが立ち寄るコンビニでえっちな本は置くべきでないという考え方はある程度肯定されているし、職場で、女性の性的なポスターは貼るべきでないと言う考え方はある程度共有されている。

多分、表現の中でも、文字による表現と絵による表現では扱いが異なる。絵による表現は、一瞬で情報が伝わってしまう。そのため、自分で排除しようにも、既に情報を受領済みになってしまう。

ここから、表現は、絵による表現に限ることとする。文字による表現は、受け取る側が情報を受け取りきる前に拒絶することが容易だから。

 

月曜日のたわわは、ぜんぜん性的な絵ではなかった、という主張もされている。

見たくない、と主張する人たちの過剰反応だ、という表現肯定派の主張だ。

 

けれど、多分みんな、どの絵に対してフェミが文句を言って、どの絵に対しては文句を言わないのかはよくわかっているはずだ。

その広告の絵の中には含まれない情報が社会的文脈の中に存在する。

私たちは知っている。

月曜日のたわわ、のマンガを読んでいない者でも、ある程度マンガについての教養のある者であれば、あの絵のキャラクターがどのような属性を持っているのか、予測ができる。

従順で、清楚で、ちょっとえっちな女子高生。

いや、てんで見当違いなことを言っていたら申し訳ないのだけど。

月曜日のたわわ、のストーリーには、この絵でなければならない。

比較対象にされていた、気の強そうなキリッとした女子高生では、このストーリーには不適切だ。月曜日のたわわがどの程度人気の漫画なのか知らないけれど、けれど、別の絵を使っていれば、きっと人気にはなれなかった。

このストーリーには、この絵が適切だ、というある程度定型化されたものがある。

もちろん、例外もたくさんあるのだけど。

但し、これまでのマンガ家の洗練された感受性と表現力によって、一つの形ができていて、フェミと呼ばれる人たちは、その社会的文脈込みで、この絵に対して、嫌悪感を覚える。

 

実際に嫌悪感を覚えるのだろうから、それは単なる過剰反応ではない。

私自身は、まったく嫌悪感は覚えないけれど、フェミと呼ばれる人たちがこの絵に対して嫌悪感を覚えることは想像に難くない。

 

私自身、もしも、月曜日のたわわのファンだとしても、クラスの陽キャの女子に、今このマンガ読んでいるんだ、なんてことは言えない。「キモッ」と言われて、言われのない悪評が広がりかねない。

 

初めて女友達を自宅に呼ぶ時には、月曜日のたわわの単行本は、絶対に見つからないところに隠すだろう。エロ本以上に見られては困る。

 

それぐらい女子に受け入れられないマンガであり、絵であることはわかる。

いやもちろん、一部の女子にはなんら抵抗なく受け入れてもらえることもわかっているのだけど、一部の女子からは激しく拒否されることもわかっている。

 

別にフェミだから激しく反応しているのではなくて、もう少し広い範囲の女子に、キモがられるタイプの表現であることは、表現肯定派の人たちだって、本当はわかっている。わかっていながら、そこには目をつぶって、フェミと呼ばれる人たちのトンデモ理論に正論をぶつけて、勝った気でいるのだ。

 

胸をさらけ出したジャニーズの広告が許されて、たかが二次元の服も着ているし、胸も手で隠れている絵がそれほど批判されなければいけないのか、とも言われる。

男性側は寛容であって、それに対してフェミ側は不寛容で、不公平だ、という主張だ。

 

多分、比較対象が不適切なのだ。比較対象はジャニーズではいけない。

 

女子が性的に興奮するなんてはしたない、と不快に感じる性差別的な人はいるかもしれないけれど、多くの人にとっては、ジャニーズの誰々さんが胸をはだけさせて、興奮するー、と聞いても、別にそれほど否定的な気持ちにはならないし、むしろ健全だ。

従順で清楚な女子高生がエッチなのが興奮するー、なんて言ってたら、キモオタでなくてイケメンであっても、受け入れられないことは、みんなよく知っている。

その理由も言語化しないといけないのだろうか。

多分、未成熟な女子高生であること、に加えて従順だというところで真の合意があるのか、どこか犯罪臭がしてしまうというところか。

ジャニーズには、犯罪臭はない。

 

別に、これによって犯罪が助長されているなんて言うつもりはない。単に、キモチガワルイ、と言われるのも仕方がないというか、本当に気持ち悪いと思っている、単に批判のために言っているのではなくて、心の底から気持ちが悪いと思われていることが理解できる。

 

気持ちが悪いという人たちがいて、炎上したとしても、それによって話題になって広告効果が得られるなら、それは結局、マンガ家にとっても、広告主にとっても、日経新聞にとっても、勝ちなんじゃない?という主張もある。

一部の少数者の気持ちを害したとしても、経済的利益を得てしまえば、それで目的は達しているので、正当化できる、という主張だ。

 

正直、最近はフェミと呼ばれる人たちのトンデモ理論が目に余るところがあり、あまり相手にされていない。

私もそのフェミと呼ばれる人たちの1人に含められてしまうのだろうけど。

大して影響力のない少数者の意見など、無視してしまえばいい。それも一つの態度だろう。

私は、彼女らの嫌悪感を理解することはできるので、見たくないだろうことは予測できるので、あえて見せるようなことはしなくても良いと思う。

マンガの広告など、他にもいくらでもやりようはある。あえて、フェミと呼ばれる人たちも見ていることが予想できる日経新聞に載せる必要はない。

もっとピンポイントに広告を打つことができるだろう。

炎上目的でやる、という考えも最近はあるし、それによって大きな広告効果を得られる場合もあるだろう。

けれど、人をあえて不快にさせるのは私の価値観には反する。

 

ちなみに、月曜日のたわわ、に対立する表現はジャニーズではないと言ったが、では、何が対立する表現になるのか。

対立する表現は、月曜日のたわわ、に嫌悪感を感じない人たちが嫌悪感を感じる表現である。

具体的には、おっさん✖️おっさんの攻めと受けの合法的なからみの表現、とか、老人✖️老婆のキスシーンなんかもきつい。

 

そういう表現が何らかの広告効果があってなされたとしても、できれば、それは自分に向けて訴求されたものではないし、もうちょっと目に入る人を選んでほしい、と思ってしまう。

人の内心は、どんなでもいい。けれど、その欲望を表現する場は選んでほしい。人の目につかないところでしてほしい。私の日常生活には入ってこないでほしい。もう少し、心の準備ができているタイミングで来てほしい、と思う。

 

人は誰しも苦手な表現がある。

私は多数派だから、嫌な気持ちになる場面は圧倒的に少ない。しかし、少数派だからといって無視していいことにはならないと思う。

誰だって少数派になる場面はある。その場合には、多数派の利益を大きく害することなく実現できる、少数派への合理的な配慮を希望するものだ。

 

横断歩道でのおじぎ

横断歩道を渡る小学一年生に、止まってくれたドライバーに対しておじきをするように警察官が教えている。

 

この報道に対して、止まるのはドライバーの義務であり、こんなことを警察官が教えるべきではない、という意見があった。

 

私の家の近くにも小学校があり、おじぎをする可愛らしい小学生がおり、ほとんどの子どもがおじぎをするので、最近の教育なのだろうと思う。

 

止まるのはドライバーの義務であり、この義務を無視して、止まらずに通り過ぎる車が多い現状には問題があると思う。

 

一方で、感覚的な話ではあるけれど、以前よりも止まるドライバーが増えているとも感じる。以前は、歩行者のために止まる時には、後ろの車が不満に感じるのではないかとヒヤヒヤしていたものだが、最近は、止まるのが義務であると認識され始めて、私よりも前を走っている車が止まることも頻繁にある。

 

そのような認識の変化に、このおじぎがもしかしたら影響しているのではないかとも思うのだ。

 

私自身、小学生のおじぎに対して、過剰だな、と感じる。

 

しかし、逆に、過剰な対応をされると少し居心地が悪く、次に同じ状況が乗じた時に、止まらなければならない、という義務感が生じるような気がする。

 

そういうわけで、多くの小学生がおじぎをすることで、結果的に、全国の小学生が巻き込まれる交通事故が減るのかもしれない。

知らんけど。もしも、最近、通学中の交通事故が減っているのであれば、まぁ、因果関係の証明は、おじぎが一般化された地域とそうでない大家で、どの程度減少したのか、比較するとか、とてもたいへんなのだろうけど。

もしも事故が減ってるなら素晴らしいことだと思う。

 

事故を減らすために、義務者であるドライバーに義務を守らせることは大切だと思うけれど、守るべき子どもたちが守られれば、それはそれで良いことだと思う。

 

ちなみに、この話をしていて思い出すのは、りゅうちぇるの話。家事をしているのに感謝されない相談者の夫に対して、居心地が悪くなるぐらい妻のやってくれたことに対して感謝を示したらいい、という発言。

なんか炎上してたけど、良いことだと思う。

相談者は、夫であって妻ではない。つまり、妻の行動は変え難いけれど、夫は相談者なので、夫の方は行動を変えやすい。夫が行動を変えることで、全体の状況が好転すれば、良いと思う。妻もきちんと感謝した方がいいんだろうけど、感謝しなくて良いというわけではなくて、感謝を口にするようになるように相談者の行動を変えてみるというのは、良いことだよね。

意見を発信する際の注意

自分の意見を発信することが重要だと感じている。

 

意見は正しいとか間違っている、というものではない。それぞれの人の意見が違っていて良い。意見が違うからといって、それが相手の人格を否定することではない。

色々な人の意見を見ながら、それに対して強く反撃をする人がいて、それほど攻撃的になる必要はない、と思う。

 

その一方で、意見であれば、どのような意見でも認められるのだろうか?

人格批判をするような攻撃は当然控えられるべきだけれど。

 

橋下徹さんのゼレンスキー大統領に対する批判には目に余るものがある。

橋下さんの意見には変遷があるが、その間に、自身の発言に対する反省が表現されていないように思う。

 

政治家ではあるものの、戦争は経験しておらず、その見識は、どちらかというと素人に近い。しかし、政治家であり、かつ、影響力があり、間違った意見が拡散されることには問題があるように思う。

 

そう。意見だけれど、間違っていると思う。

意見だから、正しいも間違いもない、というわけではないと思っている。

意見を持つにあたって、その前提となる事実がある。その事実が間違っている場合、意見が間違うこともあるのではないか。

 

ウクライナは降伏すべきだと橋下さんは言った。負ける戦争をして、市民の被害を生じさせるべきではない、と。

 

私たち日本人がイメージする降伏とは、GHQによる平和な降伏かもしれない。

しかし、ブチャで明らかになったように、ロシアは、恐怖で抵抗を抑止するために残虐行為に及ぶ。残虐行為が行われた後のウクライナ市民の表情から、彼らはこれを予測していたのだと思う。その上で、抵抗をしている。

 

まるで、想像の及ばない世界なのだ。平和な日本にいてはまるで理解できない状況。

それも仕方がないことなのかもしれないけれど、けれど、自分たちの知識が足りないことを認識したら、謙虚にならなければならないと思う。

 

意見を持つことも発信することも難しい。

十分に前提となる情報を収集しないといけない。

間違った意見を発信してしまった場合、それを修正しないといけない。

そう考えると、意見を持つことは、そんなに簡単なことではないと思った。

子どもへの指摘

子どもの貧困家庭という本を読んでいる。

 

非行と貧困に関係があるという話があった。少年院に入所する少年に貧困家庭の子が多いということから。

 

私が携わったことのある少年事件からすれば、親に何らかの問題があることが多いような気がした。子どもたちは、ルールに対する考え方が極端な気がした。

 

私も、子育てをしていて、子どもの問題行動に対してどのように注意をしたらいいものか悩むことがある。

 

具体的には、故意と過失についてだ。

5歳の長男が、極端な受け取り方をしているように感じる。下の子が間違えてぶつかってしまった時に激しい攻撃を加えてしまう。わざとだ、などと強く主張する。

自分自身が間違ってしてしまったことについて謝れない。

 

この子は、言葉を理解する能力が高い一方で、言葉で説明されたルールに強くこだわる傾向があるように思う。そして、ルールの穴を見つけようとしたり、ギリギリを攻めようとしたりすることがある。

 

本当は、ルールの裏にある考え方まで理解してくれたらいいのかしら。

親も全てのルールを言語化できるわけではないし、家庭の外で、全ての大人がルールを明言してくれるわけではない。

言葉にされなくても何が良くて、何が悪いのか、もっと自分で考えてもらいたいとも思う。

 

自分で、ルールを言語化する努力をする必要があると感じる一方で、そればかりでよいのか、この方針で良いのか悩む。

 

話を非行少年に戻す。

彼らを見ていると、非常に簡単なルールを絶対視している傾向が強い気がする。

どのような場合に例外が存在するのか、それぐらいもっとずっと複雑なルールを理解しても良いだけの年齢だと思うけれど。

 

友だちを裏切らない、とかもその一つだ。

犯罪への加担を求めてくる友だちを拒絶できなかったり。

 

自分は決して協調性がある人間ではない。

社会にうまく適合できなかった。

そんな自分があれこれ考えて、本当に子どものためにことができるか不安もある。